おしゃべりしようよ!

今日は昨日より、強くやさしく、自由に。

「感謝」を待って欲しい。

「大変でも、感謝しないとね。」

「恵まれてるんだから、感謝しないとね。」

「そうしたくてもできない人がいるんだよ。」

 

育児が始まってからしばしば言われること。

主に母親や声をかけてきたおばさんから。

正しい!正しすぎるよ!

でも、ちょっと待って欲しい。

感謝の気持ちが自然に湧いてくるまで、待って欲しい。

 

子供の頃から、私の母親はなにかにつけて「感謝」という人でした。

具体的には思い出せないけど、何かしても、何かあっても、

「周りの人のおかげだね。」

「神さま、ご先祖さまに感謝しなくちゃね。」

とよく言われました。

子供心に、それはさびしかった。

あー、私のがんばりは認めてくれないんだなって。

それから、「感謝」できない自分は悪い人間なのかと悩んだり。

だから、今でも「感謝」を振りかざしてくる人は苦手。

そして今でも、ふとした瞬間に、感謝できないことに罪悪感を感じることがあります。

 

でも、感謝の気持ちって「しよう!」と思って湧いてくるものじゃないと思う。

ましてや、人と比べて感じるものでもない。

「うれしいなあ。」

「気持ちいいなあ。」

「楽しいなあ。」

「すばらしいなあ。」

そういう気持ちをしっかり味わった後に初めて、じわじわーっと感じるのが感謝じゃないのかなあ。

それは人知れず、人それぞれのタイミングで、人それぞれの深さで起こるもので、誰かに見せたり比べたりするものではないんじゃないかなあ。

(あ、別に表現したり伝えたりするのが良くないっていうわけじゃなく。)

 

いつでも感謝の気持ちを持っていた方が良いに決まってる。

でも、私はできない。

子供のことひとつとったって、感謝できていないことの方が多い。

それでも、

子供の手が自分よりすごくすごく小さいことに気が付いた時や、

一生懸命な時の黒目の輝きを見た時や、

私を指差したり抱きついてくれたりする時……

そういう時にふわーっと、

「これは何だ。すごいことだぞ。ありがたいなあ。」

って思う。

何に対して、何を感謝するのかなんて分からない。

それを神さまだとか祈りだとか言う人もいるだろうけど、私にはよくわからない。

 

とにかく、世の中忙しすぎるよ(笑)

感謝の気持ちが湧くまで、ちょっと待って欲しいし、感謝だけじゃなくて、例えば「絆」だ、「愛」だ、「仲間」だなんだって、これ見よがしに良いもののように言ってくるけど、全部ちょっと待って欲しくなることがある。

そして、私も周りの人や自分を待てていない時があるから、待たなきゃなーと思う。

生きていることに隙間なんてない。

f:id:iwadetomoko:20171020131709j:image

入院手続きの書類に、自分の年齢が何歳何ヶ月と書いてあったのが新鮮でした。

そうそう、子供は今はまだ1歳何ヶ月だって言ってるけど、2歳3歳になったら、何ヶ月とは言わなくなるだろうな。

生まれたての頃なんて、生後何時間がどうとか、生後何日でどうなんて言ってたな。

かたや大人は、毎年誕生日をお祝いしなくなったり、アラサーだアラフォーだと言って四捨五入してみたり。

 

まあ、単位はなんでも良いんです。

私が育児をしてから不思議に感じるのは、時間の流れが早い遅いというのを、ほとんど感じなくなったこと。

もう、1年だったらきっかり1年、1日ならきっかり1日。

それ以下でもそれ以上でもなく、ちょっと言葉にしづらいけど不思議な感覚です。

 

毎日子供を見ていると、一日一日、それこそ1分、1秒、一瞬たりとも、何もしていない(寝ることや、じーっとしてることも含めて)ということがないです。

で、それって本質的には大人も同じだと気がついて、それが「時間の早い遅いを感じない」ということに繋がってるのかなと考えました。

 

単位はともかく、生きてることは1+1+1+1+……で、隙間なんて全然ないんだよな。

良いことがあったり悪いことがあったりするけど、その全部がそっくりそのまま隙間なく自分の人生なんだ。

(ぱっと見では何もない、ということも含めて。)

その自分の時間をしっかり見つめて受け止めもせず、「あー1年自分は何してたんだろ。なんかあっという間だったな……。」とか前はよく思っていた気がする。

 

まー、そういうどろりとしたネバっこい時期だって、自分の人生の大事な時間だったって今ならわかるけど!

「ゆらゆら揺れるのも楽しんでください。」

昨日行ったマタニティのヨガクラスで先生が言っていた言葉。
立ち木のポーズのときのこと。
↑片足をあげる、いかにも「ヨガっぽい」ポーズ(笑)

 

前も同じことを先生が言っていて、すごくいいなあーと思いました。
もう、毎日ゆらゆら、ぐらぐらすることばっかりだから(笑)
でも無理にバランス取ろうとしなくていいんだなって。
自転車と同じで、まっすぐ走ろうとすればするほど倒れちゃう。
ゆらゆら、ぐらぐらしながら、その中で自然と中心が定まってくる。

私も前よりは「中心」がある気がする。
面白いのは、その中心ってゆらゆら・ぐらぐらの間にあるから、はっきりした何かがあるわけではないし、目にも見えないし言葉にもできないんだなー。

 

ヨガのポーズって、正解の型や、ブレない軸、まっすぐとはこういうもの!というのを目指すのではなくて、ゆらゆら、ぐらぐらしながら、段々調ってくるものなんだと思う。
すごく面白いな。

 

そうそう、ゆらゆらぐらぐらしたら、足を着いたり手を突っ張ったりしてもいいんだからねー。

禅に呼ばれてる気がする……。

最近仏教や禅に突然興味を持ち始めました。

きっかけは先日旦那さんの実家に帰ったときに偶然読んだ本だったのですが、気になることが全部禅につながっている気がします。

 

・マインドフルネス瞑想、全然悪くないし良いんだけど……なんで逆輸入みたいなまどろっこしいことしないといけないんだろう?

最近は誘導のCDがうっとうしく感じる(笑)

「いま・ここ」とか、そういう伝統って日本にもともとあったんじゃないの?

なんなのマインドフルネスって。日本語で言ってくれー。

もっとダイレクトに、削ぎ落とされたものがいいなあ。

→え、禅じゃない?

 

・いろんなものの美しさの秘密が知りたい。

例えば料理。盛り付けだけじゃなくて、作る人の立ち居振る舞いが気になる。

布巾をどう使うか、とか、包丁をどう置くか、とか。

茶道につながる気がする。

それから花道も気になる。

暮らしの全部。

→え、禅じゃない?

(〇〇道の中でももっとも簡素な形が坐禅だと理解しています。)

 

・子供を見ていて感じる美しさ。

そのまま、そうとしかならないような収まりの良い美しさ。

一生懸命、没入している美しさ。

でも無理しているわけではなくて、あくまで自由なんだけど秩序があるような美しさ。

(座ってる姿、歩いてる姿、食べてる姿などなど。)

→え、禅じゃない?

(座禅マスター(?)が端座している姿は美しい。写真見て驚いた。)

 

・ヨガをしていると、体と言葉の関係が面白いと感じる。

言葉では表現しきれないものが当然あって限界がある。

でも一方で、言葉を通じてイメージが広がることで体の動きが変わることがある。

例えば、最近おもしろいとおもったのは

・頭の後ろにも目があると思って

→体の後ろにも意識がいくことで、前に偏りがちなバランスを調整できる。

・手のひらで呼吸する

→腕がぐーーーんと伸びる。

こういう、体と言葉の関係が気になる。

→え、禅じゃない?

(禅、坐禅の言葉っておもしろいんです。)

 

・妊娠出産子育て。自分でどうにかできることなんてこれっぽちもない。

ある意味不自由極まりない。

でもいろいろ諦めたり手放したり受け入れたりすることで、初めて感じる自由がある。

より大きなつながりの中にある安心感を感じる。(いつもじゃないけど…笑)

→え、禅じゃない?

(禅かどうかわからないけど、自分が感じることが仏教の世界観とすごく合致してる気がする。縁起とか無常とか。)

 

 

自分の親がキリスト教系の信仰を持っていたり、私の一番好きな作家が遠藤周作だったり、大学の専門は西洋美術だったりで、これまで日本や東洋のことって特別目を向けてこなかったです。

その一方で、小さいころはお茶を習っていたり、着物を着るのが好きだったり、宮大工になりたい時期があったり(笑)、呉服の仕事をしたり。「そっち」の種も持っていました。

 

うーーん、なにかがぐるぐる繋がっている感じがする。

時間はないけど、禅の本をいま読んでます。

銭湯の湯上がりのミルク瓶よろしく、自分にぴんとくるものは、ゴクゴク飲めるようです。

もうひとふんばり。

気がついたら予定日まで1ヶ月を切りました。

準備の買い物をしたり、一時保育の手配や実家との調整をしたり、レンタル用品をお願いしたり……。

二人目とはいえ、なんやかんやとすることがあります。

 

今日は旦那さんが休みだったので、子供が昼寝したタイミングで近所のカフェまで出かけてきました。

旦那さんが家にいてくれるだけでほっとして、何もする気が起きなくなります。

ちょっと外をぷらっとすると、ふと気づく。

あー………
くたびれている……(笑)

もうひとふんばりだ。

 

去年上の子を産んだ病院の先生はとても良い先生だった。

健診の時に超音波の画像を見ると、私はいつも泣いてしまったのですが(まあ今回も…笑)

その度先生は、

「なんでこんな風になってるんだろうねえ。」

「不思議だよねえ。」

とおっしゃってくれた。

そういう感性をお持ちの先生だった。

「赤ちゃんがどうして生まれてくるのかも、ほんとはよくわかってないんだよ。」って教えてくれたのもその先生でした。

いろんなホルモンがどうだとか、産道がどうなるとどうだとか、分かってることもあるんだろうけど、結局のところ、いつなんで生まれてくるのか専門のお医者さんにもよくわかんないらしい。

本当に不思議だ。

 

あと思い出すのは、小学校の保険の授業のときに先生が、黒い画用紙を手に持ち、

卵子の大きさはどのくらいだと思いますか?」

と言って、針の先でプツリと穴を開けた姿。

その穴から見えた小さな光がなんだか変に印象に残っていて、20年近くたった今になって、

「ああ、みんなあの小さな光の粒みたいなのから始まったんだなあ。」と思うと、本当に不思議で、感慨深い。

 

上の子がいる中での妊娠生活は想像以上にきつかったけど、もうひとふんばり。もうひとふんばり。

やさしい気持ちでその日を迎えたいと思う。

胡散臭く生きる。

今の自分って、つくづく胡散臭いよなあとふと思うことがあります。(笑)

 

ブロガー?

なにそれ、怪しすぎるでしょ……。

ヨガ?瞑想??

だ、大丈夫?なんか入信する気??

整理収納アドバイザーの資格??

そういうのでお金もらうつもりなの?

カメラ?写真??

え。インスタ映えとかしちゃうつもり?流行りのカメラ女子?

お母さん??

そんなことブログに書いて、いいお母さん気取り??

専業主婦???

小さな自己満足をひけらかす??

 

 

胡散臭いなあ!

 

(というか、私、性格悪すぎる……。

なんでこんなにポンポン批判の言葉が思い浮かぶんだろう!)

 

 

昔から拒否反応を示したり、人がしてることを心の中で批判したりするときに、私は「胡散臭い」という言葉をいつも使っていました。

そういう言葉ってありますか?

例えば、

なんか腹立つ!

妬ましい!

調子乗ってる!

とか……?

 

自分にとって本当にどうでも良くて、アンテナに全くひっかからないようなことであれば、多分何も気持ちは動かないと思うんですよ。

「ふーん」「へー」でお終い。

でも、たとえそれが嫌な気持ちであれ心が動いたなら、そこに何かしら自分が気になるものが潜んでいるような気がします。

そう考えると「好き!」「すてき!」とかポジティブな気持ちも、ネガテイブな気持ちも、ベクトルが異なるだけでただのサインなんだなーと思います。

むしろネガテイブな気持ちの方がエネルギーが強いことが多いから、そっちの方こそ、自分により大切なことかもしれないという気持ちで、冷静に具体的に検討してみるべきじゃないでしょうか。

 

「胡散臭い」って、どういうことかと言うと

信じられない=本当はそうであって欲しいけど、そんなのありえない。

自分には無理。

それを他の人がしてるなんて許せない。

そういう気持ちなのかなーと思いました。

 

そして、「胡散臭い」をもとにしてその行動や変化を選んでみたとして、やっぱり始めのうちは「胡散臭い」に違いないんです(笑)

だってそれは、今まで試したことのないことだから。

初心者のうちは誰だって取って付けたような胡散臭さがあるじゃないですか。

何かが自分にとっての本物になるまでには、必ず「胡散臭い」を通り越さないといけない。

そんなことをふと思いました。

 

人にどう思われるか気になることもあるけど、一番の足手まといはやっぱり古くて意地の悪い自分なんです。

思い返せば、これまで誰かに面と向かって批判されたり「そんなの無理だよ!」とか言われたりしたことがありません。

まあ、実際どう思われてたかなんて分からないし、気が付いていなかっただけかもしれないけど、有難いことに自分の周りには、いわゆる「ドリームキラー」と呼ばれるような人はいなかったと思う。

それなのに自分で自分の首を締めて、本当に好きなことや気になることに挑戦してこなかったなんて、なんて馬鹿で勿体なかったんだろう!と思うんです。

だからこれからはもっとチャレンジする人生にしたいなーと、そんなことを考えています。

まあ具体的なプランは何もないんですけど、ね!

胡散臭く生きよう!そしていつか本物に。

子供がいてちょうどいい。

あれもしたい。これもしたい。

もっともっとしたい。

(ブルーハーツの歌詞。)

その一方で、体の外からも中からも、「お母さーーん!!」と呼ぶ声。

(二人ともまだ喋れないけど笑)

そんなときはつい、子供のことを重荷や制限のように感じてしまう。

そういう側面は確かにある。

 

でも、今日ふと思いついたのは

「私は、子供がいるくらいでちょうどいいのかもなあ。」

ということ。

私は放っておいたら、頭がくるくる回ってどこかにぴゅーっと飛んで行ってしまうようなところがある。

だから、子供が船のイカリのような適度な重しになってくれている気がする。

(ごめんね、お母さんったら落ち着きがなくって!)

 

何かができること=自由なら、私は昔より不自由だ。

独立した何か=私なら、私は全然私らしくない。

でも、今の方がずっと自由で私らしいと感じてる。

外側から形作られていく、ある意味消極的な「私」が楽しい。

それをしがらみということもできるけど、いろいろな繋がりの中にいる安心感がある。

自由は、自分がこだわって作り上げようとしていた、ちっぽけな私から自由になることなのかもしれない。

子供といると、そんなことを考えさせられる。